TRIVIAデニーは、とても音楽好きで、どんなタイプのものも聴かれたそうです。彼はピンク・フロイドが本当にお好きだったそうなので、スキーの時も聴かれてたかもしれませんね。他に私がLukから聞いた、デニーがお好きだったミュージシャンは日本の「DJ. Krush」、イギリスの「レディオヘッド」などです。 デニーのお父様とLuk君は一度ロサンゼルスのリトルトーキョーの「レストラン・アオイ」で、三人でお食事をされたそうです。デニーはその時、「マグロ」と「味噌さば」と「塩焼き」(魚は不明)を頼まれたそうです。Luk君はそれを「グッド・チョイス」と言ってました。よく分からないけど(^^;)、デニーも日本食お好きだったようですね! |
デニス・フォレスト氏のお名前の正しい発音はデニー・フォレイなのですが、日本では、カタカナ読みがデニス・フォレストとして定着しているため、フルネームを書く際はデニス・フォレスト氏で統一しています。ファーストネームだけを書く場合は、デニーと書かせて頂いています。予めご了承くださいませ。 このバイオグラフィは、デニス・フォレスト氏のご友人PaulraさんとJeffさん、甥のLuk君からメールでお聞きした事と、imdbに彼のバイオグラフィを書かれているご友人のLee Annさんの記事を元に書いています。 Paulaさんのメールの一部と、Jeffさんからのメールは、Life is Gas様から翻訳して頂いたものから書いているので大丈夫なのですが、管理人は英語を全く理解できないため、その他の部分は間違ってる可能性大です。翻訳や修正、大歓迎です! 私はデニス・フォレスト氏の一ファンに過ぎませんが、彼の素晴らしい才能と業績、知的で魅力的で、多くの人に愛された私生活でのデニーについても、少しでも多く、そして出来るだけ正しく、彼の事を伝えたいと常に願っています。でも私が英語も分からないし、知識も浅いために、全く力不足です。このページの日本語バイオも怪しいし、まして英語で彼のバイオを書くなんて、私には全く無理なんです。 全てデニス・フォレスト氏のお人柄と、俳優、アーティストとしての素晴らしい功績によるものですが、このサイトには、多くの国の方が訪問してくださっています。世界中の彼のファンのために、デニーのバイオを英語やフランス語、ドイツ語、イタリア語 ロシア語など、他国の言語で書いて頂けるデニーファンの方、探しています。 imdbのバイオグラフィは、デニス・フォレスト氏のご友人のLee Annさんという方が書かれています。だからもっとちゃんと読めれば、少しはまともなバイオが書けると思うんですが、管理人英語分からなくって、ほんとに情けないです。翻訳してくださる方いらっしゃったら、ぜひよろしくお願いします。 ファンの皆様に助けて頂けると、とても嬉しいです。 Lee Annさんは、何とここの掲示板にもメッセージを残してくださいました。管理人の変な英語は無視して、宜しければそちらもご覧くださいね。 デニス・フォレスト氏のご家族とご友人からお聞きしたお話の一部を、日本語のホームにも書かせて頂いていますので、そちらもご一読ください。 演劇ディレクター、そして教師でもあったDora Mavor Mooreは、1930年代から1940年代にかけて、カナダで劇場確立のために努めた人物で、この賞は演劇に貢献した彼女を讃えて1978年に設立された。 毎年5月1日から翌年の4月30日の間にトロントの劇場で公開された、演劇及びミュージカル作品に対して、贈られる。 ホットドッガー=ホットドッグのプレイヤー。ホットドッグはフリースタイル・スキーの別名 K2は米国のスポーツメーカー。主な製品はスキー、スノーボード、インラインスケート バインディングはスキー靴とスキー板を固定する締具という道具で、デニーが使っていたのはバート社製のプレート式バインディングだと思われる。転倒すると簡単にスキー板が外れて大怪我を防ぐだけでなく、装備の一部に靴と板を繋ぐケーブルが付いていて、スキーが勝手に足元に戻ってくるようになっていた。 |
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デニス・フォレスト氏は、1960年9月5日、カナダのオンタリオ州オタワ生まれ。フランス系カナダ人の彼の名前は、デニー・フォレイと発音します。 二つ年上のお姉さまルイーズさんと二人姉弟のデニーは、優しいご両親の元、温かくて明るい家庭で様々な才能を育みます。彼はまだローティーンの頃から、カナダのオタワ川とリドー運河の「ポールズ・ボート・ラインズ・リミテッド」社と呼ばれる観光ボートでアルバイトをしていました。最初はチケットを売りでしたが、その後はリドー運河でボートを操縦するようになりました。 俳優になる前、10代の頃のデニーは、フリースタイルのスキー・プレーヤーで、大会にも出場するほどの上級者で、黎明期にあったフリースタイル・スキーで、彼はカナダの元祖ホットドッガーの一人でした。彼はK2製スキーにバート・バインディングを装着していたので、「バート」と呼ばれていました。彼はカナダの伝説的なスキーヤーとも沢山滑っていて、その中にはジェイムズ・ボンド・シリーズの「美しき獲物たち」でスキー・スタントをやったマイク・ネメンスバリーもいました。 彼はオタワの高校を卒業後、俳優になるためにトロントに移り、「ライアソン・シアター・スクール/Ryerson Theatre School」で演技を学びます。 1982年から1987年の間は、「Necessary Angel Theatre Company」でリチャード・ローズ(Tamara)に師事し、演劇活動を続け、1983年 『Mein』で、「The Dora Mavor Moore Award」のBest New Play 賞を受賞した他、1984年にはCBCドラマ 『I Love a Man in a Uniform』 で 「ACTRA acting award」にノミネート、1985年には、「Chalmers Award」を共同受賞しています。 幾つかのハリウッド作品で、深い印象を残す演技が認められたデニス・フォレスト氏は、1990年、ロサンゼルスに移り、様々なジャンルの映画やテレビ作品で活躍を続けます。偏執的で神経質な影のある人物の抜群の描写力はもちろん、「マスク」や「The Adventures of Brisco County, Jr」などのコメディでも、彼はその秀でた才能と演技で観客を魅了します。「ザ・シールド」での完璧な演技を含め、デニーは才能と感性に溢れる高い演技力で、常に忘れがたい印象を残す名優でした。 SFやホラー、サスペンスやアクション作品への出演が多いデニーですが、1987年公開のハートフルなファミリー・コメディ「The Tadpole and the Whale (Grenouille et la baleine, La )」では主役マイケル(オリジナルのフランス語バージョンではマッセール/Marcel)を演じました。この映画を気に入られていた彼は、故郷カナダでの映画の成功をとても喜ばれていたそうです。この映画のオリジナルはフランス語ですが、英語バージョンもデニーご本人の声です。彼の代表作の一つとして知られる本作品は、現在もカナダでは高い人気を保っているポピュラー作品で、デニー演じるマイケルは、特に子供と女性ファンに人気のある愛されるキャラクターです。デニーのフランス語と英語、両方のバージョンで、この映画のデニーはとても魅力的で、彼の美しさと高い演技力を満喫できる作品なので、日本で公開されていないことが本当に残念です。 デニス・フォレスト氏は、俳優として第一線で活躍する中、 『Blind Spot』 と、『Into the Fire』 の二つの脚本を書きました。俳優として、本当に驚くような演技力で多くの業績を残している彼は、画家、彫刻家、作家としても、とても精力的に活動されていて、演技以外の芸術面でも本当に才能溢れる人物でした。 彼の絵画と彫刻は、多くのギャラリーや会場で展示され、デニス・フォレスト氏は、才能溢れる優れた芸術家として高い評価を受け、称賛されました。彼と彼の芸術作品は、これからもずっと、人々に感動を与え称賛を浴び続けるでしょう。彼のアート作品については、アートワークページをご覧ください。 私生活でのデニーは、ユーモアに溢れ、知的で賢明な、とても魅力的な男性だったそうです。彼は健康的で、高い精神性をち、多くの人に愛されました。詩、文学、哲学、芸術、映画、音楽、ヨガ、錬金術(?)と、彼が持ち続けた多くの好奇心は、斬新な感性として、彼の絵画や彫刻などの芸術作品に顕著に表現されています。 2001年、デニス・フォレスト氏は、お母様とお姉さまを亡くされました。二つ年上のお姉さまは、先天性の心臓の病気が原因で亡くなられたそうです。 その年の後半も、デニス・フォレスト氏は、「Xファイル」や「ザ・シールド」など人気テレビシリーズのゲスト出演、アクション&サスペンス映画「ディトネイター」と多忙な撮影をこなし、完璧な演技をみせます。「ディトネイター」で彼が演じたカーウィンは、とても重要な役で、台詞のないシーンから、感情を爆発させるラストまで、デニスの演技は圧倒されてしまうほど素晴らしいです。しかし、2002年3月18日、41歳という若さで突然亡くなってしまったデニーが、この映画の完成を見ることはありませんでした。 彼の遺作となってしまった「ディトネイター」は2003年にリリースされ、この映画の製作者は、俳優デニス・フォレスト氏の思い出と功績を讃え、「In Memory of Denis Forest (1960 - 2002) 」というクレジットを捧げています。 同じく彼の遺作の一つとなってしまった「ザ・シールド」のパイロットエピソードで、被害者の夫ロニーを演じた彼の完璧な演技は、メソッドの名優と絶賛されました。 2002年3月15日(金曜日)、ロサンゼルスでデニス・フォレスト氏のアートショーがオープニングを迎えました。オープニングの日、デニーは映画「ディトネイター/Detonator」の撮影で、遅れて出席しました。彼は、アートショーに集まったたくさんのご友人達が、皆彼の到着を待っていたので、とても喜んでいたそうです。 次の日曜日(2002年3月17日)、デニーは、友人で彼の絵画の額装もされているJeffさんに、ギャラリーの窓にかかっていた絵の額装のやり直しを依頼しました。デニーは、別の絵を飾りたかったそうです。 Jeffさんが額装をされる間、デニーもギャラリーに残り、お二人はギャラリーにいた数時間に色々なお話をされたそうです。そのあと彼は、額装のやり直しのお礼にと、Jeffさんを夕食に連れて行きました。でも、食事の後すぐに、デニーの心臓に問題が起きはじめ、彼は胸の痛みに襲われました。そして、その翌日、2002年3月18日に、彼はこの世を去りました。デニス・フォレスト氏は、まだ41歳の若さでした。 彼にも前の年に亡くなられたお姉さまと同じ先天性の心臓の病気がありました。胸の痛みに襲われたデニーは、きっとそれを直感し、とても恐怖を感じられたと思います。 デニス・フォレスト氏の葬儀は、ご家族とご友人に見守られ、故郷のオタワで営まれました。 デニーが亡くなられた時、ロサンゼルスでは彼の個展が開催中で、作品は確認できていませんが、次の映画の出演準備に入っていました。彼の才能とお人柄から、多くの友人にも恵まれ、彼はとても愛されていたと思います。彼は亡くなられる直前まで、公私共に充実した毎日を送られていて、とても幸せだったとお聞きしています。 デニス・フォレスト氏が亡くなられた後、彼のお父様Paulさんがロサンゼルスに来られた時に、彼のアートショーの再オープニングイベントが開催されました。その時のビデオをご家族から頂きました。サイトに動画をアップしていますので、アートワークのページから、ぜひご覧ください。 あまりにも早く逝ってしまったデニー、彼は俳優として、そしてアーティストとして、本当にたくさんの感動を与えてくれました。カナダ出身の才能溢れる俳優、作家、そしてアーティストでもあった彼の素晴らしさに、触れる事が出来た幸運な人々の中で、デニス・フォレスト氏は様々な思い出として生き続けるでしょう。 デニス・フォレスト氏を愛するファンの一人として、これからも彼の作品が多くの方に観られ、その秀でた才能と演技力に魅了されるファンが増え続けることを願っています。 俳優、作家、画家、彫刻家として、デニス・フォレスト氏は本当に才能に溢れ、全てにおいて高い実力を持つアーティストでした。彼が遺してくれた数々の素晴らしい作品は、これからも多くの称賛を受け、愛され続けるでしょう。 |
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